ロスベイ霊園の日本人墓地:歴史の縮図 Part III

Vincent A. ELC Research International


右側が日本人埋葬エリアで,海沿いの墓標は高潮により土壌ごと消失している


排斥の要因

日本人移民排斥の要因について続けます。一般的に移民が排斥される理由としては,前に申し上げたように移民人口の急増が第一に挙げられます。カナダではまず中国人移民が急増して排斥の対象となりました。初期日本人移民の場合も,日本からの移民が本格化した明治20年代からわずか10年後の明治30年代には,カナダ社会に軋轢(あつれき)を生じ始めていたようです。しかし,日本人移民の場合には移民人口の急増のほかに排斥を招いた別の要因がありました。それは日本人移民が極めて有能であったことと,著しく勤勉であったことです。


極めて有能

まず有能さについては日本人の高い教育水準が挙げられます。江戸時代の日本では侍の階級には藩校と呼ばれる教育施設が各藩に設置され,武家の子弟の教育が行われていましたが,町人階級にも,寺子屋や手習指南所(てならいしなんしょ)と呼ばれる私塾がありました。この寺子屋や手習指南所は,まず江戸や上方など都市部を中心に展開され,その後,徐々に農村・漁村にも広がり,庶民階級の教育を担っていました。

寺子屋・手習指南所の教育内容は「読み,書き,算盤(そろばん)」といわれるように国語と算数の基礎知識の教育が中心ですが,それだけに留まらず,人名や書簡の作成法,日本地理など,実生活に必要とされる知識や技術も含まれていました。

日本では明治5年(1872年)に学制(学校制度)が制定されましたが,この学校教育制度が比較的スムーズに国民に受け入れられた背景には,寺子屋・手習指南所などの私塾によって庶民の間にも基礎的な学力がすでに形成されていたことがあります。それを示すひとつの指標が識字率で,明治初期の段階において日本の識字率はすでに世界最高の水準にありました。

日本人移民よりも前にカナダに移住した中国人労働者と比較すると,日本人移民の教育水準・知的水準は相当に高く,場合によっては白人労働者のそれよりも高かったかもしれません。日本人移民の教育水準の高さが仕事に対する理解力の速さ,正確さ,完成度の高さなどにつながったであろうことは想像に難くありません。また漁夫移民の場合は日本で培ってきた漁法の完成度の高さが白人漁夫のそれをはるかに上まわっていたという事実も伝えられています。

しかしながら,日本人のこのような有能さは,日本人移民を単なる肉体労働者として受け入れたカナダ白人社会には逆に脅威として映り,日本人は手強(てごわ)い相手だという印象が白人社会に定着していったようです。そして明治28年(1895年)の日清戦争勝利,続く明治39年(1906年)の日露戦争勝利によって,この印象は決定的なものとなったはずです。

また,日本人移民の教育水準の高さは,移民たちがカナダで家庭を構え子を持つようになると,子どもに対する教育の熱心さとして表れます。すなわち,日系移民たちは子を学校や教会へ通わせて知識・理性,宗教心を育もうとしますが,それはカナダ白人社会にとってあまり好ましくありません。なぜなら,下層労働者の子が教育を受けて育ってしまうと低賃金の下層労働者が再生産されないだけでなく,その子たちが白人社会上層に入っていくことで,結果として白人の職を奪うことになりかねないからです。


著しく勤勉

もうひとつの勤勉さですが,そもそも日本人は国民性として勤勉で,低賃金でもよく働く民族です。しかし,カナダ日系史における初期日本人移民の勤勉さは良い面ばかりではありません。それは権利意識の希薄さの裏返しでもあったからです。

日本人が毎週末に休むようになったのは比較的最近のことです。太平洋戦争敗戦により民主国家が形成されるまで,日本人には労働者としての権利意識が非常に希薄で,毎週日曜に仕事を休むという習慣がありませんでした。休みは毎月1日と15日のみというのが普通で,これに盆と暮れ(正月)に数日間の休みがあるという程度でした。

カナダに移住した日本人もよく働きました。低賃金でもよく働くという元来の国民性に加え,権利意識の希薄な日本人労働者は労働組合に参加せず,白人労働者がストライキを打つときにも日本人は働きましたので,経営者には好都合であっても,白人労働者からは“労働者の敵”とみなされ嫌われていったようです。

このように日本人の持つ有能さと勤勉さが,一方では日本人移民の信用・信頼を高めるポジティブな要素として働き,他方では日本人移民排斥を招くネガティブな要素として働いたと思われます。日本人移民の急増とこのような日本人の特性がカナダにおける日本人移民の“居心地の悪さ”を徐々に強めていき,最終的に,日本がカナダ・英国と敵対関係に陥ることで,日本人の完全排斥に至ったということではないでしょうか。


ロスベイ霊園埋葬者数の変化

さて,本題のロスベイ霊園の話に戻りましょう。ロスベイ霊園の日本人の墓の有りようにはカナダ日系の歴史が凝縮されています。これまでに述べたように,初期日本人移民にとってはビクトリアがカナダ移住の起点であり,多くの移民先駆者たちがこのロスベイ霊園に眠っています。また親の墓がなく孤立した子どもの墓が多いことも,ロスベイ霊園の日本人墓地の特徴のひとつですが,それに加えて,埋葬者数の変化にもカナダ日系移民の歴史が色濃く反映されています。次の図をご覧下さい。



FIG. 3はロスベイ霊園における一定期間毎の日本人埋葬者(新規埋葬者)数を示すグラフです。初期の頃は埋葬者数が少ないことからグラフではまず1887年から8年間の埋葬者数を,つぎに1895年以降1949年までは5年間毎の埋葬者数を,そして1950年以降は各10年間毎の埋葬者数を示しています。墓標の中には当初は別の場所に埋葬され最近移設されたものもありますが,数が少なく全体的特徴に影響を与えないので,カウントに含めています。

さて,明治20年代(1880年代後半)から日本人のカナダ移住が本格化しましたが,これに応じて,ロスベイ霊園でも1890年代から1900年代にかけて日本人埋葬者が増加し始めます。その後,1914年頃までほぼ一定数の埋葬者がありましたが,1915~1919年の5年間は埋葬者が急増しています。これは1918年から翌1919年にかけて世界的に大流行し死者が多発したスペイン風邪による影響を受けたものと思われます。

グラフに示されるように1930年以降は埋葬者が減少していますが,直前の1928年に日本人移民の数量的制限に関する日加政府間の合意であるルミュー協定(1907年発効)が改定され,この改訂によって新規移民が著しく制限されたため,以後,日本人移民数が激減しました。また,当時すでにバンクーバー港が整備され,日本からの船がバンクーバーに着くようになっていたため,日系人移民がバンクーバーに多く住むようになっていたことなども影響しているものと思われます。

前述のように1931年に満州事変が,1937年には廬溝橋(ろこうきょう)事件が起き,日英関係・日加関係が悪化します。そして最終的に太平洋戦争の勃発により,1942年にカナダ太平洋岸の日本人・日系人が内陸部へ強制移住させられたことは前に申し上げた通りです。カナダの日系移民にとっては1942年で歴史が停止してしまったのです。(了)


参考文献

本稿Part I~Part IIIを記すに当たり参考とした主な文献は以下の通りです。文中で逐次引用して参りませんでしたが,ここに記して著者の方々に対する謝辞とさせていただきます。


Douglass Francis・木村和夫(編)「カナダの地域と民族 ──歴史的アプローチ」 同文館1993

飯野正子「日系カナダ人の歴史」 東京大学出版会1997

南川文里「『日系アメリカ人』の歴史社会学 ──エスニシティ,人種,ナショナリズム」 彩流社2007

村川庸子「境界線上の市民権 ──日米戦争と日系アメリカ人」 お茶の水書房2007

Roy Miki & Cassandra Kobayashi “Justice In Our Time: The Japanese Canadian Redress Settlement” Talonbooks, 1991

Roy Miki & Cassandra Kobayashi「正された歴史 ──日系カナダ人への謝罪と補償」 つむぎ出版1995

高村宏子「北米マイノリティと市民権 ──第一次大戦における日系人,女性,先住民」 ミネルヴァ書房2009

米山裕・河原典史(編)「日系人の経験と国際移動」 人文書院2007

吉田忠雄「カナダ日系移民の軌跡 ──移民の歴史から問い直す国家の意味」 人間の科学社2003


※本稿はJaponism Victoria, Vol.5, No.3 (2011)に掲載の記事「ロスベイ墓地と日系コミュニティ Part III」を一部修正して再掲載したものです。


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