ロスベイ霊園の日本人墓地:歴史の縮図 Part I
Vincent A. ELC Research International
カナダBC州ビクトリア市にRoss Bay Cemetery(ロスベイ霊園)という公園墓地があります。この霊園には,太平洋戦争前にビクトリアに移住し不幸にも亡くなられた日本人移民や幼くして亡くなった子どもたちの150余柱の墓があります。しかし,大変残念なことに,戦争の勃発により日系人は敵性国人とみなされたため,1942年(真珠湾攻撃の翌年)に,太平洋沿岸に住む日系人は内陸部に強制移住させられました。その結果,日系人埋葬者の家族はすべてビクトリアから追放され,墓を守る縁故者がまったくいなくなりました。
このロスベイ霊園の日本人墓地の有りようをつぶさにみると,そこにはカナダ日系人移民の歴史が鮮やかに描かれており,この日本人墓地がまさに歴史の縮図そのものということがわかります。そこで,この日本人墓地の特徴をみながら,カナダ日系移民の歴史を振り返りたいと思います。
ロスベイ霊園
ビクトリアの南端,海岸沿いのDallas RoadをBeacon Hill Parkから東に向かって車で数分の距離に Ross Bay Cemetery(ロスベイ霊園)があります。正面入り口はFairfield Roadに面しており,住所は1594 Fairfield Rd. Victoria。このロスベイ霊園は1873年に作られたビクトリアで最も有名な公園墓地で,特定の宗教・教会に属さない共同墓地です。
敷地は1893年と1906年の二度にわたり拡張され,現在の面積は約11ヘクタール(27.5エーカー)。墓地はその名の通りRoss Bayに面した景色が非常に美しい場所にあり,その美しさゆえに創設時には地元コミュニティの人々から,墓地にするには場所が良すぎるとの反対運動もあったそうです。園内は概ねキリスト教各宗派で区分けされており,一部に先住民,中国人など人種による区域があります。現在,約28,000人が埋葬されており,著名人の墓も多く,なかでもカナダ人に人気のある画家・作家のエミリー・カーの墓には毎年,大勢の人が訪れます。
このロスベイ霊園は日系コミュニティとふたつの点で非常に深い縁をもっています。ひとつは,この霊園に日本人の移民先駆者たちが多数眠っているということ。そしてもうひとつは,前述のように,この日本人たちの墓の現在の有りようにカナダにおける日系の歴史が凝縮されていることです。
まず,ロスベイ霊園に埋葬された日本人たちの特徴をみることにしましょう。
埋葬者数
ロスベイ霊園にはカナダにおける最初の日本人移民とされる永野万蔵の妻つやと,その娘はるの墓をはじめとして多数の日本人移民が眠っています。ちなみに,万蔵自身は後年,日本に帰国し,日本で没しています。
太平洋戦争が起きるまで,ほとんどの日本人移民はBC州に居住していました。なかでもビクトリアは初期の日本人移民にとってカナダ上陸の地で,日本人のカナダ移住はビクトリアを起点として始まったといえます。日本人移民先駆者が多数この墓地に埋葬されているのはそのためです。
原稿執筆段階で判明しているロスベイ霊園の日本人埋葬者は161名です。このうち太平洋戦争を契機に日本人・日系人の強制収容が行われた1942年までの埋葬者数は153名。それ以後,1954年までの12年間には日本人・日系人埋葬者はひとりもありません。ただし,ロスベイ霊園には身寄りのない日本人,中国人,韓国人女性と子どもたちを埋葬したと思われる場所に「Oriental Home」という墓標があり,そこに日本人が埋葬されている可能性がありますが,詳細は不明です。
原稿執筆段階で判明している1942年以前の日系人埋葬者153名に関して,18歳以上の者は91名。性別では男性が61.5%,女性が17.6%,不明が20.9%です。この数字からも当時の日系移民社会が男性社会(男性が多い社会)であったことがうかがわれます。
日本人の墓標は多くが木製で,風化,流失,破壊などにより失われ,埋葬当初の墓標としては石製のものがわずかに残るだけです。1980年代から日本人埋葬者の調査が数次にわたり行われ,日本人・日系人有志を中心とする「懸け橋グループ」により墓標が再建されました。懸け橋グループについては後にお話しします。
埋葬者の死亡時年齢
FIG. 1は1942年までの埋葬者153名の死亡時の年齢と人数割合を示すグラフです。死産を含む0歳児,すなわち誕生日を一度も迎えることなく没した子どもが28%と高い割合を占めています。これに1~9歳を加えると10歳未満の子どもが36%となります。当時のカナダ社会の栄養事情や医療水準,そして移民の経済状態などからすると,授かった子どもを健やかに育てるのが大変難しかったことがこの数字からもわかります。また,概して若年層の死亡割合が高く,労働現場での事故死,過酷労働による病死,あるいは自殺など,青年期・壮年期をまっとうすることすら難しかった移民生活の厳しさが表れています。
1942年:歴史が停止したとき
ロスベイ霊園における日本人の墓の最大の特徴は,埋葬者の直系家族はもとより親類縁者にいたるまで,いまでは誰ひとりビクトリアに住んでいないことです。
カナダ政府が行った1942年の強制収容政策(太平洋岸から100マイル以内に居住する日本人・日系人を内陸部の収容所に抑留する政策)と,それに続く拡散政策(収容所に抑留した日本人・日系人をさらに東部へ拡散移住させる政策)は,ビクトリアから日本人を一掃するという意味では完全に成功し,戦後1949年に日本人・日系人がBC州に戻ることを許された後も,誰ひとりビクトリアには戻ってきませんでした。
ロスベイ霊園に埋葬された日本人移民先駆者にとっては,あたかも1942年で歴史が止まったかのようです。そしてこの結果はさらに別の悲劇につながります。先に,埋葬者のなかに子どもが多いことを記しましたが,親たちが強制移住させられた結果,それ以前に幼くして亡くなった日本人の子どもたちはロスベイ霊園の墓に取り残されてしまいました。つまり,ロスベイ霊園の日本人墓地には子どもだけが孤立して埋葬されている墓が非常に多いのです。
FIG. 2は1942年以前に埋葬された15歳以下の日本人の子ども56名について,親の墓がそばにあるケース,きょうだいと思われる名が付された墓がそばにあるケース,いずれでもなく子だけ単独で埋葬されているケースをみたものです)。この分析では,同一または隣接する区画内で姓が同一で年齢が離れている場合を親子,年齢が幼く近い場合をきょうだいと判断しています。
図のように子どもが親の近くに埋葬されているケースは25%しかありません。残り75%は子どもだけの墓です。ただ,その半数は同じく幼くして亡くなったきょうだいと共に葬られており,せめてもの救いといえるのかもしれません。
日本では子が幼くして亡くなると先祖代々の墓に,あるいはその隣に墓標を建てて葬ることが一般的です。その光景を見慣れた日本人にとっては,子どもだけが孤立して埋葬された墓が多数並ぶロスベイ霊園の風景は異様に,そしてとても悲しく映ります。
(「ロスベイ霊園の日本人墓地:歴史の縮図 Part II」に続く)
※本稿はJaponism Victoria, Vol.4, No.2 (2009)に掲載の記事「ロスベイ墓地と日系コミュニティ Part I」を一部修正して再掲載したものです。
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